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2012年3月29日 伝「信濃飯田藩主堀公下賜の紅梅」が満開

伝「信濃飯田藩主堀公下賜の紅梅」

当宿より徒歩3分ほどにございます「飯田藩主堀公下賜の紅梅」と伝えられる、樹齢300年を超す梅の古木が今年も見頃となりました。

今日は久しぶりに温かな風が吹きそよぎ、空は快晴。日向は20度以上に感じる陽気になりました。

昨年より10日ほど遅い満開です。

この紅梅の咲く場所は、代々飯田藩の御典医の屋敷であったと伝えられ、紅梅も藩主の堀公より下賜されたものと伝えられているのだそうです。


信濃飯田藩は、寛文12年(1672年)に5万石の脇坂家が播磨龍野藩へ移封され、代わって堀親昌が下野烏山藩から2万石で入封しました。堀家はその後、明治維新まで飯田藩主でした。

この紅梅が根を張る仲之町、そして江戸町は、脇坂家時代から上級藩士の屋敷があったとても古い町並みです。

資料をあたると、紅梅がある場所は、脇坂家封地時代は近藤家百二十石、堀家時代には阿久沢家の屋敷であったようです。

文化二年(1805年)の堀家御家中御屋敷順覚が個人蔵で残されていて、それを見ると、御医師の一人であった十五人扶持の山岸隆軒が、仲之町北側に屋敷を構えていたようです。場所は、現在の飯田ルーテル幼稚園あたりであったようです。


ちなみに、江戸町という町名は、江戸詰の藩士の屋敷が集まっていたことに由来していると考えられます。

堀家は江戸後期、天保の改革で有名な水野忠邦によって十代藩主の堀親寚(ほりちかしげ)が幕府の閣僚に推挙されて、寺社奉行、若年寄、そして老中まで歴任するという幕府の重鎮の一人でした。

水野忠邦の失脚により、お役ご免となって石高も1万7千石に減封されましたが、飯田藩の上級藩士の多くが江戸に馴染み深くなったようです。

飯田藩は、脇坂家5万石から堀家2万石へと代わったため、藩財政は常に逼迫していました。
そのため、不足財源を商家からの借り受けにたよる「御定借」体制でした。先日、「中馬」を紹介しましたが、上納金を取ってお目こぼししていたものでしょうか。

そのような背景もあって、藩士と御用商人との関係も深いものだったのでしょう。

廃藩後、藩地は天領になりましたが、城下は私有地が多いのも、御定借の結果かも知れません。

維新後、飯田から東京で商売を始めたケースが多いのも、江戸詰の藩士と商家との関係があってのことだろうと思います。

有名な民俗学者である柳田國男は、元飯田藩士の柳田家に養子入りしたことで柳田姓となりました。
その縁で、飯田美術博物館に東京麻布にあった柳田國男の書斎が移築されて、柳田國男記念館として公開されています。

柳田國男が婿入りした柳田家も江戸詰の飯田藩士であって、柳田國男は東京で養子入りしたもので、飯田に暮らしたことはありません。

元城下町というのは、当地同様に江戸との縁は少なからずあるものだろうと思います。

伝「信濃飯田藩主堀公下賜の紅梅」

閑話休題。由来はさておき、写真のように、とても立派で美しい紅梅です。

週末の天気予報は今ひとつですが、江戸時代の営みに思いを馳せながら、美しく芳しい紅梅を楽しみに、是非とも信濃飯田城下へお立ち寄りください。


-2012年3月30日 追記-

伝「堀氏拝領の紅梅」

この紅梅は現在、加納家が所有、管理されているそうです。
樹齢は約350年と言われ、枝ぶりが見事な老樹である分、手入れには大変な御苦労をされていると思います。

飯田市街は昭和22年に大火に見舞われていますが、仲之町は下伊那酒造(現在の喜久水酒造)の酒蔵群、そして江戸町は、裁判所と伊藤家の土蔵で火の手が止まって類焼を免れました。

飯田の大火で当時残されていた古い家々が焼失することはございませんでしたが、明治以降から藩士の家系が転出したり、土地管理法人のみを残して都会へ移るなどして、時代の移り変わりに流されて街並みは古いものから淘汰されているのが現状です。

そんな中、江戸期から続く紅梅や土蔵を維持される努力は大変なものでしょう。
こういったことが、大切にされる時代となりました。もっと評価されるべきだと思います。

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